覚えているだろうか。2022年6月、兵庫県尼崎市で、約46万人分の市民の個人情報を入れたUSBメモリが居酒屋で紛失された。委託を受けた作業員が飲酒のあと、かばんごと置き忘れた。USBは翌日に見つかり、市は情報の流出は確認されていないと説明した。
それでも、ひとつの問いが残る。なぜ、街ひとつ分の情報が、酔ったひとりの人の手に委ねられていたのか。
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保護を始める — CAD 187 カナダドル/年問題は、その人が酒を飲んだことではない。問題は、ひとつの小さな記録媒体にそれだけのものを載せ、ひとりの人の移動に任せる仕組みそのものだった。見つかったのは、幸運だった。仕組みが機能したからではない。
持ち運べるものは、置き忘れられる
USBメモリや外付けハードディスクの便利さは、そのまま弱さでもある。ポケットに入る。かばんに入る。手で持ち運べる。つまり、どこにでも持っていけるし、どこにでも置き忘れることができる。
2017年には、ロンドンで似た出来事があった。女王の警備に関する資料などを入れたUSBメモリが、路上で通行人に拾われた。誰かが高度な技術で侵入したわけではない。媒体そのものが、本来あるべき場所から離れてしまったのだ。
技術の話をする前に、この単純な事実に立ち止まる必要がある。物が動くかぎり、物はなくなる。人が運ぶかぎり、人は置き忘れる。どれほど注意深い人でも、疲れている日はあるし、酔う日もあるし、気を取られる瞬間もある。仕組みが「誰も間違えないこと」を前提にしているなら、その仕組みはすでに危うい。
ひとつしかないものは、ひとつ失えば終わり
持ち運べることと並んで、もうひとつの弱さがある。ひとつしかない、ということだ。
USBメモリにせよ、外付けハードディスクにせよ、そこにしかないものは、それを失った瞬間に終わる。コピーがなければ、取り戻す手段はない。探し回るしかない。見つからなければ、それで終わりだ。見つかったとしても、そのあいだ誰の手に渡っていたのか、誰にも完全には証明できない。
尼崎の件では、翌日に見つかったことが「よかったこと」として語られた。だが、見つからなかった場合を考えてみてほしい。あるいは、見つかるまでに誰かが中身をのぞいていた場合を。運がよかった、という評価は、裏を返せば、運に頼るしかない仕組みだったという評価でもある。
暗号化は「読めない」ためのもので、「なくならない」ためのものではない
ここで、よく出てくる反論がある。「暗号化しておけば大丈夫ではないか」というものだ。半分だけ正しい。
暗号化は、たしかに中身を読まれにくくする。だが、暗号化は媒体そのものがなくなることを防がない。置き忘れを防がない。誰かに持ち去られることを防がない。そして、「これは何だろう」という好奇心を防ぐこともできない。鍵がかかっていても、物自体が人の手に渡れば、それが何か大切なものだということは伝わってしまう。
大切なのは、中身を読めないことだけではない。そもそも、誰の目にも触れず、誰の手にも渡らず、失われても困らない状態にあることだ。読めないことと、見つからないこと、なくならないことは、別の問題である。ひとつの技術で、すべてを解決した気になってはいけない。
家の中に、誰にも見つからない場所はない
「それなら、家に置いておけばいい」と考える人もいるだろう。引き出しの奥。ベッドの下。本棚の裏。自分だけが知っている場所。
しかし、家は思っているほど閉じた場所ではない。家族が掃除をする。子どもが引き出しを開ける。来客が入る。修理の人が来る。引っ越しのときには、箱が人の手を次々と渡る。家のなかで「誰にも見つからない場所」をつくるのは、思うよりずっと難しい。
家にあるものは、家にあるあいだ、ずっと誰かの目に触れる可能性にさらされている。隠す場所を工夫するほど、かえって「ここに何かある」という気配がにじみ出ることもある。深くしまうことは、見つからないことの保証にはならない。
金庫が守るもの、守れないもの
家庭用の金庫も、同じように考え直す必要がある。金庫は、火災や水濡れといった災害からは、ある程度ものを守ってくれる。だが、金庫は「人」からは守りきれない。
金庫そのものが持ち去られることもある。暗証番号や鍵のありかを、家族や身近な人が知っていることもある。何より、金庫があること自体が「ここに大切なものがある」という目印になってしまう。
金庫は災害対策としては意味がある。だが、見つからないこと、持ち去られないこと、誰の手にも渡らないことを目的にするなら、金庫だけでは足りない。防ぐ対象が違うのだ。火を防ぐ道具に、人を防ぐ役割まで期待してはいけない。
必要なのは、もっと強い技術ではなく、手順だった
では、どうすればいいのか。答えは、新しい技術を買い足すことではない。物と人と手順の関係を、はじめから組み立て直すことだ。
まず、ものはひとつにしてはいけない。同じ内容の記録媒体を二つ用意し、別々の場所に置く。ひとつを失っても、もうひとつが残る。ひとつが誰かの手に渡っても、もうひとつは別の場所で静かに残っている。この「二つの場所」という考え方だけでも、状況は大きく変わる。
次に、ものに番号を振り、封をして、記録を残す。誰が、いつ、何を受け取り、何を確認したのかが、あとからたどれる状態にする。封が開けられれば、その痕跡が残る。痕跡が残る仕組みは、不正を防ぐだけでなく、預ける側の不安も静かにしてくれる。
そして、確認はひとりで行わない。受け取りも、確認も、ふたりで立ち会って行う。ひとりの記憶や、ひとりの善意に頼らない。ふたりの目があれば、間違いは見つかりやすくなるし、言った言わないも残りにくくなる。
保管中の確認は、原則として、半年に一度、封条と外観を目で確認し、写真で記録するだけにとどめる。ものには触れず、開けず、日常の状態を乱さない。それ以上の確認を望む場合は、本人の書面による同意がある場合に限る。触らないこと自体が、大切な守り方のひとつである。
預けるという選択
尼崎の出来事が教えてくれるのは、人が弱いということではない。人が弱いことを前提にしない仕組みが、弱いということだ。
誰にも見られたくないものがあるなら、そのものを「自分が注意深く持ち続ける」ことに頼ってはいけない。注意は、いつか途切れる。記憶は、いつか薄れる。生活は、いつか忙しくなる。そのときに備えて、ものが失われにくく、見つかりにくく、持ち去られにくい状態を、はじめからつくっておく必要がある。
それは、特別な技術を買うことではない。専任の人が、番号と封条と二人の確認という手順に沿って、静かに預かり続けることだ。物が動かない。人がひとりで抱え込まない。記録が残る。そうした手順の積み重ねこそが、「なくならない」「見つからない」という安心の実体である。
街ひとつ分の情報が、居酒屋のかばんの中にあった。次に同じ問いを向けられるのは、あなたの書斎の引き出しや、かばんの底かもしれない。その前に、ものと手順の関係を、静かに見直してみてほしい。